3.11 東日本大震災

鹿折歩道橋
鹿折歩道橋

東日本大震災から2年が経ちました。

犠牲となられた方々の御冥福を心からお祈りいたしますとともに、被災された方々に改めてお見舞いを申し上げます。

 

 最近、記憶力の衰えを感じるようになりました。あの地震のあったとき、私は何をしていたのだろうか、書き綴ってみます。

 2年前の今日、私は単身で山形県寒河江市の勤務先に居りました。辺りの携帯電話が一斉に鳴り渡る間もなく大きな揺れがやってきました。なかなか止まない揺れに皆と一緒に建物から飛び出しましたが、地面も大きく揺れていて、まともに立っていなかったと思います。正確には覚えていませんが、10分近く揺れて いたような感覚があります。誰かが、震源は宮城県沖だと。即座に頭を過ぎったのが、両親、親戚そして多くの同級生が住んでいる生まれ故郷の気仙沼でした。 停電なので手持ちのノートパソコンの電源を入れワンセグ放送を見ていると三陸海岸の様子。まさに波が渦となって押し寄せてきた岩手県宮古市が映しだされた とき、気仙沼の状況を推し測りました。これは、えらいことになってる。パソコンの映像から目を離せないでいると見慣れた気仙沼港がやっと目に入ってきまし た。オイルタンクが流されてる、、、電池がなくなりました。一体どんなことになってるんだろう、ワンセグ最後の映像に続いて頭が勝手に架空映像を作ってい きます。電話は一切通じない。福島に住んでいる妻と当時中学3年生の次女、じいちゃんは大丈夫だろうか。そういえば、阪神淡路大震災のときも似たようだっ た。家族で大阪府枚方市に在住、仕事で上海に出張中に発生した大地震でした。あの時はその日の夜の臨時便で帰国しました。

 この3ヶ月前に山形市に越していました。まだ雪深い時期、寒河江までは列車通勤。その列車は全線不通。寒河江から30分ほどの道程を上司に車で送っても らいました。助手席で空をうつろに見ながら、また勝手な映像が頭を回ります。山形市のアパートに着いて、電気がないのでトランジスターラジオ(電気は 2~3日止まっていたが、水とガスは早く復旧したと思います)。でも、電池がなくなったら困るのでこまめに消していた。すぐに夕闇がやってきた。外の様子 を知るのは、ラジオと携帯電話のメールのみ(因みに私はスマホ無し)。妻からのメールで福島は無事とのこと。ただ、群馬に住む当時大学2年生の長女が帰省 途中で、郡山駅で降ろされたらしい。当時、私の足は125CCのスクーターのみ。冬季間の移動は列車を利用していたのでJRが運休になると身動きが取れな い。術なくその時は、直に復旧するので、暫く待ってろと。何とかホテルを探し、泊めてもらえることになったとのこと。後で知ったが、停電のため稼動できる 設備等の問題で大方のホテルは宿泊を断っていたらしい。

 暗くて何もできないので、ただベッドにもぐり込みラジオを聴いている。気仙沼港で火事発生の知らせ。あのオイルタンクだ。火事になっていることだけはわ かる断片的な情報。本当に居た堪れない気持ちだった。火事の気仙沼を想像しながら一晩が過ぎ、夜が明ける。山形は静か。山形駅へ行ってみるが、復旧には思 いのほか時間が掛かりそうだ。翌日も停電は続き、日没とともにベッドへ。

 

地震から二日後、事態が変わる様子もなく、意を決して福島へ向かうことに。この時期乗ってないので、スクーターにガソリンはあまり入っていないが、福島市 まではギリギリ行けそうだ。妻の実家で自動車に乗り換えて、郡山に足止めの長女を迎えに行くことにする。国道13号線で米沢経由、雪が心配だが栗子峠を越 えれば福島市。このときは、福島第一原発がこんなえらいことになっているとは思いもよらなかったので、生身のままひたすら走る。四輪車に乗り換え、またす ぐに郡山へ。無事、長女を連れて折り返し福島へ。でも今度は山形へ向かうガソリンが足りない。福島市で営業中のガソリンスタンドがテレビユー福島 (TUF)の辺りにあるとのこと。10リットル制限だったと思う。燃費のいいスクーターにガソリン補給。夕方、寒風吹きすさぶ陸橋での列に1時間半並んで やっと給油。もう遅いので、翌日14日(月)に山形へ移動。それからは会社からアパートに帰宅後、インターネットで安否確認の毎日。グーグルマップを拡大 して気仙沼の実家が写っていたので、多分大丈夫だろうと思いながら、両親の無事を確認したのは、ある程度道が整理され仙台に住む弟が気仙沼に行ってからと 思うので、2週間程度してからだと思う。

 

 テレビで被害の大きさを知るにつれ、何で一人山形に居るのだろうという思いがつのる。育ててくれた鹿折の街が地震、津波そして火災に遭い無残な状況に なっている。でも、行ってみることすら儘ならない。山形でガソリンの供給も安定してきたのは1ヶ月ほどしてから。4月の第一週だったと思うが、震災後初め て気仙沼に向かった。道路も寸断された地元になにか持って行こうとしたが、福島市も物が不足して、数量制限。お願いしてお店の裏から余分に譲ってもらった り、数件の店を回って調達。遅れ馳せながら気仙沼に着いたものの何もなくなっていて誰がどこに居るかも判らない。道がないので街に入ることすらできなかっ た。小学校への通学路にあった焼け焦げた歩道橋あたりから変わり果てた街が見えた。その後8月に行ったときには大きなものは片付いて、車一台が走れる位の 街路は見えるようになっていた。30年前までの記憶は何もかもが根こそぎ剥がされて、辺りは水溜り。

 

 奥羽山脈の壁は思いのほか高い。2012年4月に山形市から福島市に引越し、13年間の単身生活に終止符。